「おざなり」と「なおざり」をちゃんと使い分ける人に惹かれる。
(今日会った人がどうこう、という話ではなく、なんとなく考えてたことを文章化するだけの試み)
おざなりと、なおざり
「おざなり」は「御座形」。
江戸時代のお座敷用語で、幇間(太鼓持ち)がお客の質によって芸の内容を変え、相手によっては手を抜くことを指していたらしい。
用意された御座どおりに形だけやる、つまりは「場当たり対応」。
「なおざり」は「等閑」。
こちらは『源氏物語』にも出てくる平安時代からの言葉。
「なほ(そのまま)」と「せざり(しない)」が合わさって、「そのまま放置して何もしない」という意味になった。
「バグが見つかったから、おざなりにしといたよ」「ありがとう!」
「バグが見つかったから、なおざりにしといたよ」「…え?」
時代も文脈も全然違う言葉が、響きが似てるというだけで混同されてるのは、なかなか面白い。
丁寧な言葉遣い、という話ではない
最初は「丁寧な言葉遣いは良い」って単純化できるかと思ったけど、掘り下げていくとちょっと違う。
丁寧な言葉遣いは作法やマナーの話で、相手や場への配慮。
「おざなり/なおざり」を区別するのは、そういう外向きの話じゃなく、認知的な姿勢の話だと思う。
世界や言葉を、雑に括らずにちゃんと見ようとしているかどうか。
知らなくても別に困らない、頑張って区別しなくても普通に通じるから、必要に迫られて学んだわけではない。
そして、目立たない。
区別してることに気づかれることもほぼないだろうから、自己演出のためにやってるわけでもない。
と言うことは、たまたま違いを知ることもほぼない。
どこかで自分が口に出そうとした時に「あれ、どっちだ?」と立ち止まって、調べた経験がある。
世界をちゃんと見ようとしている人は、(実際にちゃんと見れているかは別にして、)
ただ世界に置かれただけでなく、能動的に働きかけているように感じる。
他がどう言おうと自分が納得するまで満足をしない、そのポテンシャルに惹かれてるんだと思う。
変わらないために変わり続ける
この「世界をちゃんと見よう」という姿勢については、殊更に思うことがあって、
カンマ、ピリオド、半角スペースすら気にする職業だからこそ、サマンサの機知に富んだ会話にちゃんと反応できた
と書きながら、プログラマーという職業は言葉に敏感なだけでなく、世界に対して満足をしない姿勢も求められていると改めて感じた。
言うまでもなく、おざなりにしたり、なおざりにしたりすることのツケが露骨に返ってくる領域で、しかもそのツケは見た目にわかりにくく、本人じゃない未来の誰かが払わされることも多い。
何より、周りの技術や潮流がすごい勢いで勝手に動き続けている。
自分が止まった瞬間に相対的に後退し始めるから、変わらないために変わり続けなければいけない。
完全に余談だけど、「変わらないために変わり続ける」はランペドゥーサの小説『山猫』に出てくる。
面白いのは、小説での台詞"Se vogliamo che tutto rimanga come è, bisogna che tutto cambi."(現状を維持したいなら、すべてを変えなければならない。)が、映画化されたら"Qualcosa doveva cambiare perché tutto restasse com'era prima."(何かが変わらなければ、すべてが同じままではいられなかった。)になったこと。
「変わらないために変わらなければ」という台詞が本当に変わってしまって、未来の変化について示唆していた原文が映画では過去形の台詞になってしまったのがとても皮肉めいていて興味深い。
まとめ
自分自身は言うほど「世界をちゃんと見よう」な人間かは怪しくて、知的好奇心の行き着く先にたまたま言葉遊び的な「おざなり」と「なおざり」の違いを知っただけだし、
そんなことを調べてニヤニヤしてる時間は限られた人生の時間を浪費してるようにも思う。
一方で、そういった合目的的でない時間の使い方にこそ人間らしさがある気もして、それが積もった結果として今の生業になった気さえする。
そんな、人の成りが垣間見える瞬間が愛おしいなぁ、と言う取り留めなのない話でした。
