ここ数年、義実家でのんびり年越しするのが定番で、
周りにビルの一つもない山の中だとこんなにも時の流れがゆっくりになりますか、と驚きつつ、
のんびり今年を振り返っていく。
振り返り
とは言え、普通に振り返ると毎年「反省文」になってしまうので、
もうちょっと雑に今思っていることを書き留めてみる。
SNSからの卒業
20代まで、自分はHypergraphiaだと思っていて、とにかく何かを書いていたくて仕方がなかった。
当時流行っていたmixiで多い日は10記事/日を書くことが何の苦でもなく、
mixiがTwitterやFacebookと移り変わってものべつまくなし何かを発信していた。
それが今はパタリとROM専。
InstagramやLinkedInなど、有名どころはだいたい全てアカウントを持っているものの何も発信してない。
それには明確な心当たりが二つあって、
「たとえ親だろうと了承なく自分の写真をネットに公開されるのは自分だったら嫌だな」と、子どもの写真を投稿しないように決めたものの、そもそも子ども以外の写真をほとんど撮らなくなったことに気づき、自ずと何も投稿できなくなったこと、
さらに、Hypergraphiaの原因はとどのつまり「自分がいなくなった後の世界に何かを遺したい」というエゴだったが、とりあえず2個体分のDNAを残せそうだと思ったら自然治癒したこと。
もっと言うと、20代までの「憧れ」は「自分にもなれるかもしれない誰か」へ向けられていて、
40歳を目前にした今はその可能性は客観的にほぼゼロ、かつ、もう自分自身が他の誰でもない特異な誰かになってしまったので、
他者の近況を追うならまだしも、Facebook等でありがちなマウント合戦が本当に意味を感じなくなってしまった。
ただし、「憧れ」と共にあったある種の焦燥感も感じなくなってしまったので、これで良いのか、年をとるってこう言うことなのか、と漠とした不安はある。
知性
息子が5歳になり、非常に面白くなってきた。
3歳ごろまでは正直「弱小生命体の介護」という印象で、寒さや飢えから守ってあげねば、という向き合い方だったのが、
この頃は「一個の知性体」という印象に変わってきた。
ジェネレーティブコーディングなどで稀によくある「自分が書いたコードにも関わらず予期せぬ振る舞いを見せられて驚かされる」現象、
たとえば、画面左上から一定のルールで四角形を繰り返し、反対の右下からは円を描画させる、
そんな簡単なコードを書いて、いざ実行してみたら画面中央で思ってもなかった模様が現れる。
これは自分が書いた通りの振る舞いで、バグではないし、結果を見てから思うにこの振る舞いを実行前に予期できなくもない、
これは存外に嬉しい現象で、プログラマー以外の職業ではなかなか得られない経験かと思うと、自分の職業選択は悪くなかったとすら思う。
この名前がついてそうでついてないよくわからん嬉しい現象が息子を見ていると毎日のように起きる。
彼の振る舞いは、ある程度は自分がコントロールした(より正しくは「コントロールしてしまった」)が、結果は自分が全く予期しておらず、
かといって、バグではないし、振り返ってみれば彼の振る舞いは説明可能である。
無責任な物言いをさせてもらえば、これが実に面白い。
というか、責任を取れなくなってきた感がある。(もちろん、保護者としての責任という意味でなく、彼の思考の自由についての責任という意味で)
もうすぐ3歳の娘にもその兆しがある。
図らずも自分も妻も「子どもの間違いを訂正しない」方針で合致しているので、彼らの中では「ブラックホールは割と地球に近いところに存在し、街で見かける煙突や鉄塔は夜な夜な宇宙に行ってはブラックホールに吸い込まれないよう気をつけながら宇宙探索をして朝までには帰ってきている」ことになっている。
「訂正しない」もある種のコントロールだが、ともあれ、このコントロールできてそうでできてない系が近々衝突する?
これは「面白い」なんて悠長に構えてはいられないかもしれない。
Common Sense
子どものことばかり書いてしまった。
それぐらい子どもに侵された一年だったとも言える(しかもそれは当分続きそうだ)が、仕事というか非子ども領域についても。
これも20代ごろに自覚した、自分のアンテナはその他多数のアンテナと若干感度が異なる、ということ。
M1のような賞レースや作品講評会といった審査が伴う場で、自分が面白いと思ったものが選ばれることはほとんどなかった。
当時は、やはり焦りというか、「他者と合わせなければならない」と思っていた。
仮に、ユニークな存在になりたいとしても、あくまでCommon Senseを備えた上での狙ったユニークでなければならない、と思っていた。
(ここで自分のアンテナがどれほどユニークか、と言う例示はしない。ユニークでなければ願ったり叶ったりだし、ユニークだったとしてもそれは自分が狙って得たものではないから。)
独立開業してからもしばらくの間は、ことさら「弊社(= 私)は特殊です」と言っていた。
それは差別化を図ってではなく、「Common Senseが欠けています、申し訳ございません」と事前に理解いただく必要があると思っていたから。
と同時に、まだまだ努力次第ではCommon Senseを得られるように思っていたからだと思う。
今は…諦めた。どうにもCommon Senseを得られる気がしない。
また、自分のアンテナは確かに大多数とズレているが、問題になるほど大きくズレているわけでもない、と経験値を積んだから。
当たり前のことを当たり前に言って「なかなかWitな発言ですね」と捉えられることはあっても、
「(なんだこいつ、何を言ったらいいかわからねぇ…)」とはならない(か、そのような"大人"に囲まれる環境にたどり着いた)のがわかったし、
変に常識的発言を心がける方が事態をややこしくする、ということも理解したので、ズレているが常識人のふりをして生きる、が最適解と思っている。
自分はズレているが、そのズレを直す必要もない、と諦めたことによって、月並みだが他者に寛容になった。
明らかにズレてるな、という人を見かけても「お前が何を言うか」と自戒するようになり、
相手のズレもそのままに、自分もズレたままで互いにmake senseするにはどうしたら良いか、と言う思考になった。
これは仕事においても、今までは「自分らしい仕事」みたいなものを狙って成そうとしていたが、
少なくとも自分は勝手に"らしさ"を発揮するし、その上で全体の最適解に達するにはどうしたら良いか、と言う思考。
よって、「Common Senseが欠けています、申し訳ございません」と言う感情はなくなり、「積集合ではお役に立てませんが、和集合ではきっとお役に立てます」と言うスタンスになった。
世の中にはそう言う存在も必要だ。自分がその存在になるとは思ってもなかったが。
総括
シャワーを浴びながらなんとなく思いついたことを書き出して、
キーワードは「焦り(の消失)」だったんだな、と気づく。
自分の思考を外部化することはやっぱり有用だな。
Hypergraphiaが完治してしまった今となっては外部化が億劫ではあるものの、流石に1年に1回では推移が追えないので、月1回ぐらいでdumpするのを心がけてみようか。